薄緑色の光の中で目覚めたロッドは、彼の上司が今日もまんじりとしないまま朝を迎えたことを認め、がっくりと肩を落とした。出立前に整備班にかなりの金額を積んで、隊長用の個室を防音工事させたのにこれじゃ徒労だった。ねぐら代わりの飛行艇の小さな窓から白い砂浜を恐る恐る覗きこむ。ハーレムは昨日と同じように簡易椅子に腰掛けて、ぼんやりと海を眺めている。 飛行艇から砂浜に通じるタラップを努めて軽快な足音をたてて駈け降りる。涼しい潮風が吹いていて、ロッドの髪を好き放題に荒くなぶる。これではセットしても無駄だ。一日中浜辺を歩いていると髪がゴワゴワになる。彼は持ってきた整髪料一式を、早々に島の連中に適当な説明をして食料と交換してしまっていた。 体操のまねごとをしながら近づく部下にハーレムは顔を上げてにやっとした。顔色は蒼く、目が血走っている。彼は頭に装着していた軍用イヤーマフをサイドテーブルに放り投げる。その勢いで灰皿に山盛りになっていた吸い殻が辺りに飛び散った。焦げくさいタールの匂いが広がる。テーブルには酒瓶が散乱し、何冊か小説も積まれている。 「おはようございます!今日もダメですか」 「ダメで~す」 ハーレムは舌を出して両手を広げた。ロッドは肩を竦め乾いた笑いを見せた。 「隊長今日もダメですか。了解っす!あざっす!お疲れ様です!」 やけになり海に向かって姿勢を正し、パワー系居酒屋店員風に叫ぶ。つまりハーレムは、これから午前中の変な時間に惰眠を貪ることになる。口元に笑みを湛えてはいるが、まったく笑っていない上司の目はこう語る。日中のコタロー捜索活動の実行はおまえ達で適当に良きに計らえー兄貴の部下に先を越されないようにしてね。なるはやでどうにかしてね。俺寝てるし何もしないけどけどちゃんとやれよな。

ハーレムの昼夜逆転は鳥の声が原因だった。 子どもの頃の心的外傷からハーレムは鳥を苦手としていた。近頃はだいぶ寛解しているものの、体調の優れない時や、逆に平穏でリラックスした環境におかれると思い出したようにぶり返す。 鶏肉料理を見ると胸が悪くなる。鶏小屋の匂いで立ちくらみを起こす。考え事をしているとき、空に鳥の群れが現れると動悸がする。 弟のこうした瑕疵が外部に知られたら、敵に隙を与えかねない。そう考えたマジックの計らいで、このことは一部の信頼のおける関係者にのみ伝えられてる。そしてプライドの高いハーレムは、自らの脆さを認めて向き合うことを頑なに拒み続けた。彼は兄の勧める治療やカウンセリングの類をいっさい固辞している。 「隊長も意外とデリケートなとこがあるんだなあ。フランソワーズ・サガンみたい」入隊間もない頃のロッドの軽口に、ふだん寡黙なGは珍しく色を失った。彼は乱暴な手つきでロッドの口元を掴んだ。 「馬鹿っ」 視界が揺れる。Gの剣幕と顎の痛みに気圧され、ロッドは冷や汗をかいた。目を剥いてGの横顔を盗み見る。 「隊長が聞いていたら、おまえは間違いなく殺されていたぞ」 静かな怒りが込められた警告に、ロッドはとんでもないところに引き抜かれたものだと少しだけ後悔した。神経を病んだ時期のサガンは、窓辺の鳩がうるさいと拳銃で撃っていたという。

夜明けの三十分ほど前から鳥たちは静かに目覚め出す。空気の動きで分かる。目を閉じて、ハーレムは波の音に合わせて息を吸い込んだ。潮と蘭とオレンジの花の香りがして、夜風の名残が頬を冷やした。 やがて朝陽のほの白い光線が閉じた目蓋の裏からも感じ取れた。幽かな羽ばたきと囀りの気配に、彼は落ち着かない気分になった。こめかみがじんじん痛み出し、思わずそこに手を当てる。 見慣れない極彩色の鳥たちが、空気中の水分が陽光で蒸発する前に鳴き交わしだす。その過剰な呼び声がイヤーマフ越しにハーレムを焦燥に駆り立てる。耳と目の奥が疼く。鈍く断続的に与えられる刺激に耐えられなくなり、眉をしかめて目を開いた。 そこには薄青い光とエメラルド色の海があるばかりだった。澄んだ海水の動きを眺めながらハーレムは、どうせコタローの捜索はうまくいきっこないと思う。部下達が難儀しているのは甥の身柄の確保に対してではない。小さな島だ、居場所などとっくに知れている。甥を連れ帰ったところで自分たちにできることは何もなく、むしろ事態を悪化させるだけなのではと彼らは懸念している。

いっそハーレムは、このままコタローが島に留まることを選ぶのなら、それでいいとさえ考えていた。美しい土地、そして平和ー穏やかすぎて、考えすぎたり計画したりするのが馬鹿らしくなる。現実に帰れと促すには、あの子どもはあまりにも多くのものを奪われ、損なわされている。 日が高くなった頃、ようやく胸騒ぎは治まった。ハーレムは強い眠気を催し、重い足取りで密林に向かって歩き出した。太陽の暑熱を遮るため、群生したグァバの木陰にハンモックを吊るしてあった。仰向けに体を預け、サングラスをかけて大きく溜め息を吐いた。

死んだ兄が冷たい水面に浮かんでいる。黒い服に覆われた手足が波紋にもまれ水草のように揺蕩う。光線の屈折でさざ波が虹色にきらめく。その顔を見たくないと思いハーレムは目を背けようとするが、体の自由がきかない。 気がつけば、胸から下が雪に埋もれている。全身を覆う冷気で指先の感覚がなくなり、意識が遠のきかける。ハーレムはいつの間にか、兄の遺体を皆の目から隠さなくてはならないと躍起になっている。 やみくもに腕を動かし、上半身だけ雪の中から這い出る。忙しない呼吸と寂しさで肺が凍りそうだ。激しく咳き込んでも息がじゅうぶんに吸いこめない。途方に暮れ、目に涙が滲む。無音の世界で彼は叫び出しそうになる。俺はひとりぼっちだ。こんなことは誰にも打ち明けられない。氷漬けになった兄の亡骸が見つかれば、今度こそ誰も俺を許しはしまい。 何も見えない吹雪の中を半狂乱で這い蹲って進んだ。息も絶え絶えに、やっと辿り着いた目の前の氷塊にハーレムは右手を伸ばす。薄らと輝く氷の中で、彼の白い小鳥はゆっくりと握り潰され、その温かい血と痙攣が手のひらに伝わった。 幼いハーレムにいったい何ができただろう。柔らかな羽毛が頬を撫でる。

誰かに見つめられているような落ちつかなさにハーレムは目を覚ました。夢の浮遊感の名残りで、体に力がうまく入らない。胸元には汗が粘ついていて気持ちが悪かった。人心地のつかないまま視線を上げると、金髪の少年が横たわるハーレムを木の枝に腰掛けて覗き込んでいた。 ハーレムは体を起こし、サングラスを外して少年を見つめ返した。少年の髪色は、さらに鮮やかな金色に映った。寝付いていた頃は白蝋じみていた顔色も、木漏れ日の中で今は明るく血の色が差している。両手に顎を乗せ、ハーレムとその双子の弟よりも深い青の瞳を眩しそうに細めている。少年は悪戯っぽく笑いかけた。 笑みを向けられたハーレムはしばらく表情を動かさなかったが、やがてゆっくりと肩の力を抜いて、優しく微笑んだ。視線を合わせたまま、ボトムスのポケットに入れてあった拳銃をコタローに突きつけた。 「うなされてたよ、おじさん。悪い夢でも見た?」コタローは銃口を意に介さず問いかけた。 「覗き見たあ趣味の悪いボウズだ。失せろ」 「おじさんの顔がなんだか僕に似てると思って。気になっちゃってさ」唐突な核心を突く言葉にあっけに取られるが、ハーレムはまだ自らの間柄を明かすつもりはない。 「悪いがお前みたいなガキをこさえた記憶はねえな」と意地悪く嘯き、左手で再びサングラスを着けた。わずかな狼狽を気取られないためだった。 「そうなの?なんか拍子抜け」 コタローは自分のことを知りたいのだろうか。眠気はすっかり消え失せていた。ハンモックから降りて密林の中をつかつか歩き出す。拳銃は置きっぱなしにした。

しかし、数歩の距離を保ってコタローがついてくる。軽い子どもの足音を背後に聞き、ハーレムは歓迎できない事態に苦々しい気分になる。このまま走って捲くことも頭に浮かんだが、過剰に反応して疑いを持たれると厄介だと頭を掻く。スマートに邪険にしよう、と心のうちで決める。 「ねえねえどこ行くの」木の葉の鳴る音に混ざって、子どものはしゃいだ声が尋ねる。 「昼寝の後の散歩だよ」 「あのさ、怖い夢を見るなら誰かと一緒に眠るのがいいよ。僕それでかなり大丈夫になったもん」 ハーレムは思わず足を止め、振り返る。そこには存外思いつめた顔つきをしたコタローが金褐色の蘭の花々を背に男を見上げていた。ぶん、と花に群がる羽虫の音が耳元を掠めた。 「・・・悩みでもあんのか」 間抜けな質問になってしまったと感じつつ、ハーレムは手慰みに花房を引きちぎって足下に捨てた。青い匂いがした。それをしゃがんで拾いながら、コタローは小さな声で答える。 「よく分かんない。ここに来る前のことを忘れちゃってるんだ。リキッドは一時的なケンボーだから焦らなくていいって言うけど」

四年前、一時的にキンタローとコタローを連れ行動を共にした際、ハーレムは二人の情緒不安定さに手を焼かされた。コタローはケラケラ機嫌良く笑っていたかと思うと、突然火がついたように泣き出し癇癪を起こした。キンタローはまだ言語が発達していたぶん、やりとりには困らなかった。それでも、周りには理解できない不可解な行動が多く見られた。 島に向かう途中の飛行艇で、目を離した隙にコタローが自傷行為をしたと騒ぎになった。自分の頭を殴りつけていたという。見かねたマーカーがハーレムに鋭く耳打ちした。 「あれは尋常な様子ではありません。コタロー様だけでも、今後も総帥の元から離して専門家に見せるべきかと」 弟子の養育に関わっていたため、マーカーは子どもの様子を注意深く観察していたようだった。ハーレムは冷たい薄笑いを浮かべた。 「じゃあお前、俺の代わりにマジック兄貴に殺されてくれるのか」 それはどうも親切にありがとうよ。部下の進言をハーレムは皮肉に一蹴した。マーカーはそれ以上はもう何も言わなかった。

顔を洗うといいと、湧き水のしみ出す崖に連れて来られた。コタローの見よう見まねでヒョウタンの葉を折りたたんでコップ代わりにし、ハーレムは口を濯いで顔をざぶざぶ洗った。水はひんやり冷たく甘かった。 「・・・これ、顔拭くにはどうすりゃいいんだよ」タオルがねえ、と顔を上げたハーレムは辺りを見回した。 「そんなのあるわけないじゃん。自然乾燥だよ。それかシャツで拭けば?」顎から水滴をポタポタ垂らしているハーレムを一瞥し、呆れた口調でコタローは葉っぱのコップでやたらと水を飲んだ。怪訝な顔で、声を低めて問いかけられる。 「おじさんってもしかして意外と繊細?お坊ちゃん?」 濡れた両手を前に突き出し、ハーレムは立ち尽くしていた。だが次の瞬間には、コタローの衣服の腰から下の布を素早く引っ張って掴み、手を拭きだした。 「ちょっとやめてよ!」のけぞって叫ぶコタローの制止を無視して、ハーレムは今度は背を屈めて顔を拭く。二人は腰布を無言で引っ張り合い、ぐるぐる回り出す。乱暴なステップで土埃が足下に立つ。 「やめろ汚い!おっさんの皮脂がつくっ。クリーニング代出してよっ!責任者呼んでよ」 甲高くきゃあきゃあ笑いながらコタローは天を仰ぐ。青空を真ん中に視界が回転する。目の中で原生林の濃い緑と白い光がマーブル模様を描く。幸福すぎて頭がおかしくなりそうだ。 足を踏みしめて体を後ろに倒しすぎたため、重心がずれてそのまま背中から地面に倒れかける。ハーレムは片手でそれを抱き留めた。

コタローは腕の中で目を閉じて、弾んだ呼吸が落ち着くのをじっと待っているように見えた。手足は汗ばんでいて熱い。風がその体を包んだ。しんとした表情で、胸の前で両手を組んでいる。 ハーレムは地面に膝をついて子どもの体を支え続けた。手から伝わる幼い体温と鼓動に、いつしかその眼差しは痛ましいものを見るように細められた。 やがてコタローはゆっくりと目蓋を開いた。視線はハーレムの顔を通りすぎ、まっすぐ天空に注がれている。明けの明星を鏡で写し取ったような瞳の焦点が、瞬きののち男に合わさった。少年は唇を動かして囁く。 「僕はここに来たことがある。感じるんだ、忘れてるだけで。・・・・じゃあ、いつかは帰らなきゃいけないの?」 その囁きは、激しい鳥達の羽ばたきと呼び声に重ねられた。しかし、ハーレムはもう心を乱されなかった。コタローを見つめ、息を潜めて告げる。 「それはお前が決めることだ。人に許しを乞うて選ぶことじゃねえ」 「僕は誰。みんな隠して内緒にする」 紡がれる声はか細く震え、澄んだ瞳は苦しげに揺れる。 「お前自身がいつか気づかなきゃならない」 「その時、僕が、僕を許せなかったら?」 いやだよ、そんなの。コタローはくしゃりと泣き笑いを浮かべた。かわいい笑顔だった。疲れ果てた人が傷口を押さえるように胸元に手を当てていた。彼のほんとうの名を呼べないことを、ハーレムはこの島に来て初めて惜しんだ。

浜辺への帰途、安眠に良いとされる香草の群生地を教えられた。口数の少なくなったコタローは、ハーレムにそれを摘ませた。腕が草に負けて、いくつかの線状の擦り傷を作った。ひりひり痛む傷を持て余しながら、ハーレムは火山の向こうから迫りだす紫色の夕闇を遠く見つめた。蛍が飛び始めていた。 「ほらよ」 差し出された香草をブーケのように両手で受け取ったコタローは、俯いてぼそぼそとありがと、とつぶやいた。怯えたような顔つきで右手を差し伸べ、人差し指でハーレムの擦り傷を軽くなぞると、ぱっと踵を返して家の方向に走り去ってしまった。なぞられた小さな傷が熱をもつ感覚が広がった。その熱はコタローの傷ついた心から発せられたようにハーレムには思われた。 その日、艦に戻ったハーレムは部下達の報告も聞かずにさっさと休んだ。その態度を不機嫌の現れとみなした彼らは狼狽した。枕の下に自分のぶんに摘んだ草を敷いて倒れ込み、夢も見ずに眠った。 青い香気の中で、鳥達はもう彼の眠りを脅かさなかった。